こんにちは!なかい歯科 御所南ほてつインプラントセンター 中居です。
先日、当院に遠方から患者さんが来院された。以下少し長くなる(個人情報でもあるから一部話を類型化する)。
その患者さんは数年前、ある1本の歯の治療をした。
治療後もすっきりしないので相談したら、「咬みあわせが悪いのだろう」と言われ調整された。そうしているうちに、反対側の歯が変な感じがしてきた。神経を抜いて修復治療したが、今度はそちらにも違和感を感じ始め、やはりそこを外して仮歯におきかえた。すると今度は咬めなくなって、今度は矯正治療をすすめられて・・・・。逡巡する中で当院にやって来られた。というのが概略である。
この間、数年経過し10件以上の病院や医院を転院した。話を聞くだけで45分を要した。
診察すると特に異常は認められないが、多くの治療痕が認められた。実に残念なことだ。
最近こういうケースが増えている。いや、正確に言うと以前からあったと思うがそれに対して名辞すべき「言葉=病名」が存在しなかったので、認識されてこなかっただけという可能性が大きい。
我々は患者さんに「痛い」「変な感じがする」と言われるとついその部位に手を触れてしまいやすい性質を持つ。「触れずに置くことが最良」という選択肢は、とても勇気がいり高度な判断を必要とする。
結論から言うとこれまでの治療の多くは見当違いの善意で懸命に取り組まれ、しかし一部では極めてドグマティックな不可逆的治療が不用意になされ、結果として不要な侵襲を与えてきたことになる。
なぜこうした症状が生じるのか今のところ分かっていない。分かっていないということは、「ヒトはとても複雑だ」ということである。
ここで、唐突であるが村上春樹氏の文章を一部抜粋する。少しおつきあいいただきたい。
「今我々が囲まれている現実には、あまりにも大量のインフォメーションと選択肢が満ちており、その中から自分に有効な仮説を適切に選んでインテイクすることは、ほとんど不可能に近いように思える。」
続く。
「彼ら=カルトはシンプルで、直接的で、明快なかたちを持った強力な物語を用意し、そのサーキットに人々を誘い入れ引き込もうとする。それは有効性という点からすれば、きわめて有効な仮説である。そこには不純物はほとんど介在しない。理論に異議を唱えるファクターは、貝の砂抜きをするみたいに、最初から巧妙に排除されている。理屈はそれなりに一貫して通っている。迷うことも、悩むこともない。そこではすべての疑問が解かれている。」
さらにつづく。
「それに比べると、(中略)僕らにできることはいろんな形のいろんなサイズの靴を用意し、そこに実際にかわるがわる足を入れてもらうだけのことだ。時間がかかるし、手間がかかる。うまくサイズのあった靴が最後まで見つからなかったということだってあるかもしれない。そこには保証付きのものはほとんど何ひとつないのだ。」
どうだろう。
引用文中の主語「彼ら」と「僕ら」を何かに置き換えたらそれはそのまま本件の構図そのままになる。
そして、
「しかし彼らになくてぼくらにあるものもある。多くはないけれど少しはある。それは前にも述べた継続性だ。僕らは「文学」という、長い時間によって実証された領域で仕事をしている。(中略)僕が今こうしてやっていることは、古来から綿々と引き継がれてきたとても大切な何かであり、これからも引き継がれていくはずのものなのだと、僕は感じる。(中略)継続性とは道義性のことでもあるのだ。そして道義性とは精神の公正さのことだ。」
「文学」を「医学」という言葉に置き換えて再度読んでいただきたい。

村上春樹「雑文集」
~自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方), 2011, 新潮社.
また、少し話は飛ぶ。
このブログはしばしば「なかいワールド」と呼ばれているらしい(笑)。
よくある「こんな難症例をやりました」「何件こなしました」的な話題を回避して、「こんなことに感動した」とか「あれは嫌だな」ということをくどくど書いている。
どうして、こんなブログを書いているのか?
つまり、それは私が宗教家ではなくあくまで靴屋(的)であるということ、そしてそれがどんな靴屋かということを知っていただきたいからに他ならない。
あなたはきっとこんな素敵になりますよという魅惑的なサーキットを用意し呈示するよりも、私の周りにある事象と私がどんな関係性を持ち距離感を持っているかを記して、それが間接的に私の靴屋的職業感を語ってくれることになればよいと願って書いている。
ヒトは複雑なのだ。例外なくあなたも複雑なはずだ。
今回も最後までおつきあいいただきありがとうございます<(_ _)>